○人生を一言で表すなら

 上り坂だけのジェットコースター

 北海道札幌市で生まれる。幼いころから剣道を志し、気が付けば高校3年生まで続ける。高校2年生から、札幌は手稲にあるスキー場でアルバイトも始め、夏は遊園地のお兄さん、冬はスキー場の売店でホットドックを作る毎日(電子レンジで「チン」する魔法の調理法取得)。そのバイト先でメニューだった、ホットドックのソーセージをはぎ取り、これまたメニューだった焼きそばをチンしてホットドックのパンに挟む「焼きそばパン」を開発したことで料理の世界に進もうと決める。パンをチンしたことがある方はわかると思うが、思いのほかふにゃふにゃになるのです。チンした焼きそばは明らかに「チンしたやろ!」ってわかる味付けなんですね、だから挟むことにしたのです。その上にたっぷりのケチャップとマヨネーズ、当時高校生だった自分にとってはジャンクの中のジャンク。しいて言うならお肉とご飯と卵とあまじょっぱいソースの組み合わせだ。そう「豚丼・温泉たまご乗せ・たっぷりマヨネーズ掛け」だ。もっとわかりやすく言うなら「特盛かつ丼とお好み焼き」を一緒に食べるようだ。どっちが主食で副菜って話ではない。両方とも主役なのだ。トップアーティストの両A面シングルである。そんなトップアーティストのプロデューサーとして名を馳せた自分は料理の世界へと進むことになる。

 料理の世界に進もうと決めた自分はある事を考える。このまま就職して現場に行くか、もう1年専門学校で料理の基礎を学んでそれから就職するか。どちらにしても根拠のない自信は前からあった。実は高校生の時、スキー場や遊園地でのアルバイトの他に、当時スキー場のレストランのシェフに勧められたフレンチレストランの皿洗いのアルバイトと、週末の夜だけ手稲駅前の今は無き串揚げ屋さんでアルバイトをし、高校3年生の時に気が付けば3つの飲食店のアルバイトをしていた。スキー場でのアルバイトでは前述にある通り、トップアーティストのプロデュースに成功し、フレンチレストランでは飛んでくる熱々のフライパンや包丁をよけながら素早く洗うという忍者のような体術を学び、串揚げ屋さんでは先輩だった方がいわゆるイケイケの人で、仕事終わりに未成年だった自分は車に乗せられ、すすきののクラブへ連れてかれ、訳も分からずビーフィータージンをショットで1瓶飲み干すってこともあったとかなかったとか。

 そんなイケイケ先輩は元プロスノーボーダーの飛ぶ専門の方で有名企業がスポンサーとしてついていたこともあり、ビッグエアばかり飛んでいた。もちろん自分も滑りより当時は飛ぶメインになっていて、骨折したり、捻挫したりとだいぶ仕事に支障が出てたなんてことも。そして、そのイケイケ先輩の家にも何度も遊びに行った。めちゃくちゃ楽しい家だったからである。部屋の天井には何本ものサーフボードが飾られ、部屋は窓から壁から天井から真っ黒の布でふさがれ、天気のいい昼間でも時間が何時かわからないくらい暗い部屋だったのだ。しかし夜になると一変する。イケイケ先輩の友達が毎日集まりクラブへと様変わり、リビングわきにあるカウンター付きキッチンが完全にDJブースに改造されているのである。料理人なのにDJという側面もあるのだ。真っ暗の中、部屋中のブラックライトとお香の匂い、そこに流れる曲ときたら「トランスミュージック」だ。現代風に言うと「ととのう」だ。一定のリズムで様々な機械音がリピートされる。未成年だった自分には刺激的だったし、大人って楽しいって思えた18歳の夜。決して何か悪さをしたり、法に触れるようなことは一切ないのでご安心を。とにかく昔から様々なことに関心があり、興味を持つのはひときわ強い方だと思う。

 そんなイケイケ先輩が実は自分にとって最初に料理を教わった人かもしれない。普段は言ったとおりだが、仕事になるとスイッチが変わるのだ。自分にかつら剥きした皮をくれ、仕込んだ人参の端っこや皮など仕事が暇な時間になるとひたすら包丁を教えてくれた。研ぎ方やオーナーシェフの目を盗んで高価なものまで味見させてくれた。実はそれがあったから専門学校に入ってからも自分の包丁さばきは、千切り、みじん切り、玉ねぎのスライスも早かったのである。同世代で断トツだ。天才だった。

 さて、富良野に移住してから今年の7月で8年が経ち、今は9年目に入っています。富良野に来た時は30歳でしたが今は39歳です。結構みんなに聞かれるのは、「なんで移住したの?」とか「移住した経緯って?」である。当初自分は前職の飲食店の仕事の関係で東京に住んでいた。前職の会社は、自分が入社した時は全国に直営で20店舗ほどだったか展開していてそこそこ大きな会社だった。北海道1号店が札幌にできると求人が出ていて自分も面接の末入社し、北海道も最大4店まで拡大。自分もエリアマネージャーとして、時には新規店舗の立ち上げチームとして全国1カ月に2~3店舗のペースで立ち上げていった。そして上場までできた。ただ1日15時間平均で働きまくった自分は完全に疲れ切っていた。そろそろ北海道に帰って新しいことにチャレンジしたいと思った時に、将来的に自分でお店を持ちたいと思った。そこで自然が大好きな自分は実家のある札幌を選択することなく「富良野」か「ニセコ」だった。

 当時一料理を生業とする自分は、休みの日には趣味で農家さんのところで収穫を手伝ったり、ワイン用ブドウを作る農家さんのところに行ってお手伝いしたり、毎年時季になったらワイナリーのワインぶどうの除梗(じょこう)作業や選別作業を手伝ったりしていた。だから富良野もニセコも好きだった。一つ違ったのはニセコには友達がいて、富良野には友達が一人もいなかったことだ。そうなれば自分の性格上わかる。

「友達が一人もいない地域で自分がどこまでできるかチャレンジしたい」

 しかし移住までの道のりは長かった。仕事はとりあえず見つかった。中富良野町にある「オーベルジュエルバステラ」さん。いきなりの移住の自分を拾ってくれて、今でも感謝している。今となって自分が起業してからその当時の気持ちが分かる。家も見つからなかった自分に決まるまでの間、住むところを提供してくれ、車まで貸してくれました。今現在でも常に成長し続けていて、当時おっしゃってた未来のビジョンも今着実に身になっていってる。この場を借りて感謝申し上げたいと思います。

 そしてもう一人は現在富良野商工会議所専務の大玉さん。自分が富良野へ移住するうえで欠かせなかった恩人だ。当時移住したいって思った時に、その頃の皆さんならどこに行きますか?色々な選択肢があるとは思いますが、ネットもまだ今みたいに盛んではない時期、自分は、散々地域の不動産会社を回り一人暮らしできる部屋を聞き回った。しかし、、、「どこも家賃高っ!!!」でした。富良野家賃高くないですか?びっくりしました。安いところはとことん古く洗濯機ついてないとか当たり前。富良野まで来て汚くて古くて冬めっちゃ寒いみたいな部屋(乱暴な言い方すいません)住みたくなかったんです。まだ最近まで住んでいた東京の某賃貸レオ◯レスの方が東京だけど安いし、家具付きだし、きれいだった。

 そっかどこも全国の地方「移住!!移住!!」ってテレビでやっているから、役所か!
「移住って市役所に相談したらいいよね?」
「移住者向けに手厚い支援みたいなのとかありそう!」
「移住者向けの家具付きマンスリーみたいなのあるんでしょ!」
「移住者向けのサポートとか相談とか誰か繋いでくれたりとかあるんでしょ!」

 でもって、市役所に相談しに行ったら「ポカーン」とするぐらい、なんもないらしいっす。
「移住者向けの何かっていうのはありません」
富良野市内の不動産会社のリストを見せられ
「物件は不動産会社で確認してください」と言い切られる。
(現在はある事を祈ります)
「えっ、とびらの看板みたいのに『移住相談窓口』みたいの書いてあるやん!」
「不動産会社何件も回ってきてからのこの相談やん!!」と心の中で大声で叫び、決めました!
「富良野移住はやめよう!!」って笑。

 そんな愚痴を某SNSでつぶやいてたら、たまたま見ていた友人が、富良野につてある人いるから聞いてあげると言ってくれて、回り回って連絡くれたのが当時富良野市の農業委員会にいた大玉さんだ。今でも覚えている。その時東京に住んでいて、休みをもらい1日だけ富良野に来ていたので、東京に戻った後で大玉さんから連絡をもらった。あれこれ事情を話したら大玉さんは言ってくれた、「ちょっと探してあげるからちょっと待っててくれ」と。そのあと数日もたたないうちに再度連絡があり、何度かやりとりをさせていただき大量の部屋の写真が送られてきた。そう、わざわざ部屋まで見に行ってくれて細かく部屋の写真を撮って送ってくれたのだ。そして富良野は冬場は雪が深く屋根がついてる物件なのでおすすめで、スーパーにも近い物件だと。なんといっても家賃も予算の範囲内だった。率直にここまで色々とやってくれて本当にうれしかった。富良野は人柄が素敵な街だと思った。使う予定なく保管していた家電も譲ってくれた。今だから言える。この時大玉さんに出会っていなかったたら自分は富良野移住をあきらめていただろう。実際、その時あきらめて他の移住先を探していたのである。違う地域に移住していたとしても自分なりに頑張っていたと思う。でも今は富良野に来て心から良かったと思える。たくさんの仲間や人と出会い、自分のお店もオープンできた。たくさんのスタッフにも出会えた。こんなしがない自分と一緒に仕事してくれてる仲間にも心から感謝している。本当にいつもありがとう。そんな自分の経験があるからこそ、今年の4月に仲間3人と一般社団法人を立ち上げ、関係人口に関わる事で行政とともに動いている。当時の自分みたいに針の穴に通すような、奇跡のような出会いの確率はほぼほぼなく、富良野地域への移住をあきらめてる人も多くいるはず。そんな人たちと出会いたい。このエリアに興味を持っている人たちに地元の「人」を繋げたい。そんな原動力で日々学び、そして今日という一日を楽しんでいる。